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私たちが日常的に目にしている、日本のグラフィックデザイン。日本人にとっては見慣れたデザインも、海外の視点から見てみると新しい魅力に気づくことがしばしばありますよね。
この記事では、海外の人が思う日本のデザイン史を、デザイントレンドを発信するルーマニア発のメディア『Design your way』の編集長・ボフダーン・サンドゥー氏による考察と共にご紹介します。
目次
彼が日本のデザインの歴史を紐解くにあたって参考にしたのは、『現代商業美術全集』に掲載されているグラフィックデザインです。『現代商業美術全集』は西欧のデザインルールを日本のビジュアルコミュニケーションに照らし合わせた出版物です。
また、彼は日本におけるアートとデザインの分化の始まりについて以下のように続けます。
大量生産されたデザインが多かれ少なかれ全ての人の目に触れる20世紀幕開けの時代に、アートとして認められる作品を特定することは非常に困難でした。そして、芸術性を商業や広告に利用することを厭わない『純正芸術』のクリエイターによって『芸術的デザイナー』というカテゴリーが登場したのです。
当時の芸術家たちは商業芸術を学びながらも、作品のメリットと芸術的価値を維持することに重点を置いていたため、当時厳格な区別はありませんでした。
芸術性と商業性という観点では、1615年から1868年の江戸時代に頭角を表した浮世絵は、その時代唯一のコマーシャルアートで、コレクターよりもむしろ庶民に向けたものでした。
浮世絵はもともと『浮世の絵』という意味であり、美人、世界的に有名な風景、民族的な物語、ヒロイックな物語などのモチーフが日本の多くの人に向けて描かれました。
有名な芸術家のハイクオリティな浮世絵を通して、江戸時代の華やかで平和な生活を垣間見ることができます。宣伝を目的として、多くの狩野派の芸術家が大名の城を描くために雇われたことも知られています。
「こうした流れに含まれているのが、織物、版画、陶器などをデザインした琳派の尾形光琳(1658-1716)と乾山(1663-1868)の兄弟や、美しい越後屋の着物をデザインした円山応挙(1733-1795)です。琳派は、2015年に400年を迎えたことでも記憶に新しいですね。
ここで、日本絵画史上最大の画派である狩野派に着目しましょう。今日の日本のグラフィックデザインのほとんどは、室町幕府(1333-1568)という後ろ盾を持った狩野派の影響を受けているとサンドゥー氏はいいます。狩野派の創始者は、相国寺での制作を指揮した、絵師であり指導者である狩野正信(1434-1530)です。
狩野派の絵には、動物や植物が全て縁起などの意味をもって描かれているという独特な特徴があります。墨のしっかりとした線で厳密に描かれており、明るい色が使われています。
上記の作品からは、狩野派の面影を見てとることができます。狩野派は現代美術の中でも、特に木版画に影響を与えています。絵を学びたい見習いは町絵師として活躍していました。狩野派の画家たちが選んだ木版画という伝統は、西洋に輸出されアールヌーボーにも影響を及ぼしたと考えられています。
彼の狩野派についての考察は、歴史と絡みあってさらに深まります。
江戸時代(1600-1868)には、装飾的な画派の琳派が栄えました。著名な芸術家である尾形光琳(1610-1716)によって、19世紀に命名されました。琳派の作品はモチーフを大胆に捉えており、目をひきます。
歴史的には琳派は、本阿弥光悦と俵屋宗達が協力し、法華宗の後ろ盾により芸術家と職人のコミュニティーを京都に作った1615年にはじまりました。
彼らの目的は古典的な伝統と大和絵を復活させることでした。光悦は朝廷と武士に仕えていた刀剣の鑑定などをする家の出身で、宗達は商業絵画や、装飾的な扇、屏風、金や銀で背景を彩った料紙などを制作しました。
光悦は平安時代(794-1185)の華麗な貴族様式で絵を描き、書道、漆細工、茶道も嗜み、また宗達の料紙に書をしたためました。江戸時代の初期に西洋風の絵画が人気を集め、その結果、琳派は芸術家や学術機関に敬遠されました。しかし、元禄時代(1688-1704)に尾形光琳と尾形乾山という京都の裕福な商人の息子二人によって転生することになります
光琳は豊かな色使いのグラデーションを取り入れ、金や真珠を用いて自然を抽象的に描いています。琳派のスタイルは19世紀に酒井抱一(1761-1828)や鈴木其一(1796-1858)などの生徒によってうまれ変わり、光琳の作品をコピーしてうまれた琳派が復活するに至りました。のちの琳派の画家は、円山応挙と四条派の新しい自然主義的なスタイルの影響を受けたため、花や花鳥画などの題材が人気を集めました。
次に彼は明治以降のデザインについて、西洋と日本の関係を歴史を踏まえながら以下のように考察します。
1871年の岩倉使節団は、日本の芸術に大きな影響を与えました。政府関係者のグループが、不平等条約の改正や西欧の行政制度の勉強を目的として、米国と欧州を旅したのです。
さらに時代は進み、ウィーン万国博覧会がもたらしたアートとクラフトという概念の分化と、「美術」「芸術」という言葉を彼は以下のように捉えています。
このような用語の使用は、その時代のヨーロッパの趣向にしたがって精巧に装飾を施すことによって、『美術』の地位を高めて工芸品と区別することを試みた職人に影響を与えた可能性があると述べています。
ウィーン万博から20年後のシカゴ万国博覧会にかけては、日本は徐々に西洋文化を取り入れていきました。一方で、よりシンプルでより控えめな『侘び」のスタイルは、日本人の美意識に叶うものでした。
1893年のシカゴ万博で、日本は『ファインアート』と『インダストリアルアート』の両方の分野にはじめて参加しました。西洋の文化的価値観の導入は、日本の芸術や文化などの方向性を伝統的な価値観の踏襲と新しいアイデアの追求に二分させました。
1870年代後半と1880年代に来日したアーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853-1908)とウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850-1926)は、日本の美術を西欧に持ち帰るとともに、日本にも大きな影響を与えました。
フェノロサが日本に留学していた1868年には、神仏分離令によって仏像が捨てられたり売られたりしていました。そんな廃仏毀釈の時代に、国宝を保護しようと尽力したのです。
現在のボストン美術館のコレクションは8世紀の仏像から中世、近代、明治の絵画や浮世絵、刀、織物など、多岐にわたります。
フェノロサは、1882年に狩野芳崖に出会い、1884年には文部省図画調査会委員に任命されました。フェロのさの後押しにより、1888年、芳崖は崇拝対象としての伝統的な仏教絵画とは異なる『悲母観音』とい作品を描きました。
明治中期にかけて、西洋の文化的価値観を全面的に導入することに対する政府の熱意は落ち着きました。そして保守的なナショナリズムの政策を推進するという文脈において、日本独自の文化に重点が置かれるようになります。
その結果、1898年、東京美術学校の教授であった横山大観(1868-1958)と岡倉天心は(1862-1913)排除の対象に。
フェノロサのもとで学んだ岡倉は、日本初の美術学校である東京美術学校の創始者のひとりです。一度は閉校に追いやられましたが、横山と岡倉の手によって再び日本美術院が設立されました。
現代日本のグラフィックデザインは、海外の人にどのような印象を与えているのでしょうか。私たち日本人が、アジア諸国のデザインに明るくカラフルな印象を抱くのと同様、日本もそのように考えられているようです。
典型的な要素は、強い色、視覚化されたパーソナリティ、誇張されたキャラクターデザインです。
あらゆるものには長所と短所があり、日本のグラフィックデザインもこの例外ではないとサンドゥー氏は主張します。
日本のグラフックデザインの世界を牽引ているプレイヤーは大企業が中心です。中小企業がそれを超えることはほとんど不可能な状況です。彼らはプロジェクトをまとめて広告代理店に渡し、必要に応じて修正をします。これは政府の出版物、エネルギー会社、電話会社などの全てのロゴについて言えることです。
特にクリエイティブスタッフを雇っていない消費者指向のビジネスの場合、マーケティングの予算は限られています。企業はクリエティブなプロセスに予算を割こうとしないのです」
日本最大の広告代理店は、同じ業界の複数の顧客と契約を結んでおり、市場はとても閉塞的です。日本のクリエイターはより自由な取引を求めていますが、未だにこの体制は変わっていません。
また、クリエイティブな広告を掲示するためのスペースの売り手も、日本最大の広告代理店に集中しています。媒体や番組によって厳しいレギュレーションがあるので、デザイナーは規則を遵守しなければありません。
フライヤーは、ライセンスごとに数百ドルで購入できるテンプレートで作られることが多く、無料で手に入るものもあります。このようなフライヤーは予算の関係上、多くの場合経験の浅い従業員や研修生によって作られています
このような状況なので、上記のようなフライヤーに割かれる予算は低く、当然対価も低くなります。デザイナーは色やフォントを微調整する程度の役割しか与えられないのです。
逆に、ある種のグラフィックデザインは非常にライフサイクルが短く、無駄な投資をうんでしまっています。特に小企業において高価なミスが許されないような状況においては、ライフサイクルを長くするように工夫することが重要です。
欠点の最後の項目はデザイナーのスキル不足です。日本のデザイナーは、西洋らしい感性を取り入れるのが苦手です。特に言語そのものを理解できないという場合も多いです。
サンドゥー氏の意見はあくまでも一個人が日本のデザインについて考察したものです。しかし彼の日本に対する視点を掘り下げることによって、日本のデザインの意外な魅力を発見したり、問題について考えるきっかけになるのではないでしょうか。
(翻訳:Asuka Nakajima)