【社労士解説】ジョブ型雇用時代におけるフリーランスの生存戦略とは?
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筆者のPC体験はWindows3.1が最初だ。スイッチを入れると、「ファファー!」なる、Windows史上最高の勇ましい起動音とともに立ち上がる。
ある日、母親の仕事用としてリビングに登場した。家庭用でも使っていい、となったが最初はよく使い道がわからず、付属でついてきた虫の声を聴くCD-ROMを楽しむ程度にとどまっていたが、そのうちWindows95が登場し「インターネット時代到来!」が叫ばれた。そうだ、ウチにもPCがあるじゃないかと、そこからどうにか悪戦苦闘して、インターネットへつないだ。
卓球と競馬とサッポロ一番みそラーメンが好きなライター、番組リサーチャー。過去には『秘密のケンミンSHOW』を7年担当しておりローカルネタが得意。
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当時使っていたのは富士通の「FMV-466C」。PCのエンジンであるCPUにはPentiumが出る前にあった1992年発売の486DX2 66MHzを搭載し、メモリはわずか8MB。ハードディスクの容量は420MBだ。
正直インターネットをやるには、当時ですら頼りないスペック。これと比べると、昨今話題のアイリスオーヤマのPCですら、神のスペックに見えてくる。
そして、ようやくつないだインターネットだが……遅い。なにせ内蔵モデムでダイヤルアップ接続をしたとき、ダウンロード速度は最大14.4kbpsだ。たぶん実測12kbpsくらいで、ウェブページがぜんぶ表示されるのに数分かかるのはザラだった。
現代の光回線の接続では実測平均で200Mbpsを超える場合も多く、仮に200Mbpsとしても200000kbps、つまり16666倍もの速度差がある。
だから当時のサイトは今とは比べものにならないくらい、軽量に作られていた。しかしそれでも悲しいかな回線速度が遅く、快適なブラウジングとはほど遠かった。インターネットとは、もはや忍耐だったのだ。
ちなみにダイヤルアップ接続のモデムは、後年に最大56kbpsにまで高速化したが、これでもページを開くのに1分かかるのも当たり前の状態だ。当時快速ともてはやされていたISDNですら最大64kbpsで、回線を2つ束ねて2倍の通話料金をはたいても最大128kbpsが限界だった。
だからこそ、その回線速度でどうにかネットサーフィンを楽しむために、小細工がいろいろ考え出された。
たとえば「先読みソフト」は、ブラウジング中も、リンクを先回りして裏でページを読み込んでいく仕掛け。リンク先を踏んだときに体感で差が出るほどには効果があって、よく使っていた。
さらにはいっそのこと、設定で画像を表示しないようにした。情緒は失われるが、画像を切ればかなり速くなり、比較的ストレスのないブラウジングが可能になる。
もちろん画像が見られるに越したことはないが、最大でも56kbpsのダイヤルアップ接続の回線速度は、二兎を追う者は一兎をも得ずのスピードだ。割り切ってテキストだけ見るのは効果的だった。
こんな回線スピードだったから、ネット上にある「動画」のサイズは恐ろしいほどに小さく、全画面表示にするとノイズだらけでもはや原形を留めないほど。動画というよりは「音声に動画らしき何かがついているもの」だった。そう、インターネットはひたすらテキストの世界だったのだ。
エッチなものを見るにしても、動画ではなく画像中心。だから、まだインターネットで動画を見る習慣はほとんどない。
一念発起して大きめサイズの動画をダウンロードするときは、ネットをつなぎっぱなしで一晩そのままにしておかねばならない。それですら、リビングのPCでおこなうのはむずかしかった。
当時主流だったダイヤルアップ接続は、使った分だけお金がかかる従量制。もっぱら電話の市内通話料金になるので、3分で10円。1時間で200円である。正直今の基準だと、高い。
だから、夜11時~翌朝8時までであれば、電話料金を定額で使えた「テレホーダイ1800」が頼り。
このテレホーダイならば、「低速回線で表示を延々と待っているうちに、チャリンチャリンとお金が出ていく恐怖」から解放されたのだ。
またダイヤルアップ接続は、接続中は通話できない根本的な欠陥があった。しかし、テレホーダイをおこなう23時以降に固定電話に電話するツワモノなどそうはいない。だから、料金的にも、時間的にもテレホーダイがベストだった。
他のみんなもそうだったから、テレホタイムはネットが一気に活気を増して盛り上がる。
だから当時インターネットを使うのは、だいたい深夜だった。それが当時アングラ系のサイトが多かったネットのおどろおどろしさと、得体の知れない楽しさをまた増幅していたのだ。
テレホーダイ以外の時間ではオフライン閲覧も使っていた。あらかじめサイトを読み込んでから、電話回線を切ってそのページを落ち着いてすみずみまで読んだ、涙ぐましい記憶もある。
さらに筆者が頼ったのは高校の図書室にあったPCだ。なんらかの固定回線で常時接続がなされていて、ダイヤルアップより回線が速かった。90年代後半は、まだまだ生徒たちにとってインターネットは遠い存在。2台あったPCはだいたい貸し切り状態で使えた。
ちなみに当時は勉強そっちのけで、週刊少年ジャンプの「ハガキ戦士ジャンプ団」なる投稿コーナーへハガキを出すことに己のリソースを費やしており、投稿者が集うサイトへせっせと足を運んでいた。
雑誌の話ついでに、これも話しておこう。当時は大きなファイルのダウンロードはむずかしく、“インターネット雑誌”に付いていたCD-ROMが頼みの綱だった。だからエッチな動画や容量の大きなソフトはこれで調達した。
そんな低速回線だったから、まだまだ人々は雑誌を買って読んでいた。月曜日になると誰かが週刊少年ジャンプを持っていたし、カバンには何かしら1冊は忍ばせていた。ダイヤルアップの時代には、まだそれらがつけいる隙があったのだ。
活字に飢えていたので文字数の多い雑誌は人気があり、テレビブロスやGON!・ブブカなどは「とにかく文字がたくさんある」で売れていたはずだし、筆者も愛読していた。
99年後半~00年代の人気サイトといえば、なんと言っても2ちゃんねるだ。Twitterの人気が高まって日本に本格的なSNS時代が到来するまで、当時のネット界で大きな覇権を持っていた。画像といえばバナーくらいで、テキスト中心のサイトだからこそ、ダイヤルアップ接続でも十分楽しめる。
Yahoo!掲示板や個々のホームページの掲示板も活発に動いていたが、2ちゃんねるはとにかくたくさんの人が集まっていて、毎日がお祭り騒ぎ。罵声を浴びせられてイヤな思いをすることもあったが、それでも行きたくなる、スラム街のバーのようなところだった。
そのほかに通ったサイトといえば、ニフティサーブだ。パソコン通信のサービスで知られるが、1997年10月からNIFTY SERVE INTERWAYなる、インターネットから利用できる取り組みがはじまり、ときおり顔を出した。もともとパソコン通信用にできていてテキスト中心のため、回線が遅くても利用には問題ないのが功を奏したのか、当時はまだそれなりに活気があった。
ちなみに、このニフティサーブにもついていた「チャット」は、低速回線でも短文でリアルタイムにやりとりできるので、大手サイトから個人ホームページのものまで、いろいろと楽しんだ。Yahoo!チャットはひとりだけ声が出せる仕様で、和気あいあいとするときもあれば、いきなり演説をぶつ者も現れ、ガヤガヤとにぎわっていた。
そんな中でも、どうにか快適にインターネットを使えないかと、家電量販店や秋葉原、地元千葉のゴチャゴチャした中古PCショップへ行ってソフトやハードウェアを物色した。メモリを増設したり、インターネット高速化をうたうソフトを買ったり。今よりオンライン販売が発達していなかった反面、現地へ赴いて、ときには店員さんに話を聞いて情報を集めるのがまた楽しい。
そのうち、2000年発売でWindows Meを積んだ新しいPC・FMV-DESKPOWER M5/857Tが家に来た。CPUはAthlon 850MHz、メモリは128MB、DVDコンボドライブ搭載と、前のPCよりはだいぶハイパワーになり、やっとダイヤルアップ回線の速度は最大56kbpsになって、少し快適なインターネットを楽しんだ。
このころ、「ケーブルテレビの提供するインターネットがすごいらしい」との話が流れるようになる。ダイヤルアップの数十倍もの高速でつなげるサービスだ。
しかしまだエリアが限定されていた上に、当時の回線料金は高額。今なら入っていただろうが、あまりインターネットを使っていない当時の親を納得させるのはむずかしかった。
2001年9月にYahoo! BBがADSLサービスに参入し、ほどなく駅前で彼らのモデムが配られるようになり、一気に突入したADSL時代。ケーブルテレビより安価なのも導入しやすかった。
しかし、いきなり全国で使えるようになったわけではなく、徐々にサービスが拡大していくのを今か今かと待つ日々。うちにいつADSLが来たのかの記録は残っていないが、確か2002年の5月ごろに、NTT東日本のフレッツADSLを導入した。
ADSLが使えるかは、NTTの収容局からの距離が大きく関わる。近いとスピードが出るし接続は安定するが、遠いとスピードは出ないし、不安定な接続になる。
当時ADSLにはスピードの出る8Mサービスと、遅いが収容局から離れても比較的使える1.5Mがあった。家は確かNTTの収容局から4.7キロほど離れていて、ADSLを使うにはギリギリの距離。当然8Mは使えず、1.5Mを何とか導入できた。
回線スピードは1Mbps(1000kbps)も出ていないくらいだったと思う。それでも……速すぎて、大感激した。
ムリもない、それまでのスピードはせいぜい50kbps程度で、それより20倍くらい速いのだ。数秒ほどですべて読み込めるページが飛躍的に増えた。
「世界が変わった」。そんな言葉を生まれてはじめて使ってもいい、それほどの感動だった。
電話回線も同時に使えるようになったため、固定電話への着信におびえることもなくなる。
それから、12M、24MとADSLサービスを乗り換えていった末に、最終的に2009年10月にNTTの光インターネットサービス・Bフレッツへ加入し、最大100Mbpsの回線が使えるようになった。
長い旅は終わりを告げた。しかし「ADSL→光」の感激は、「ダイヤルアップ→ADSL」には及ばない。ダイヤルアップ時代の終わりを告げたADSL回線はそれほどの存在だったのだ。
ADSLがついに登場して、これでバッチリ……と言いたいところだったが、そうなっても速くならなかったのが、外出先でのモバイルインターネットだ。
当時最大384kbpsの速度が出たFOMAらのPCネット接続は、従量制でつないだ分だけパケット代が跳ね上がって高額になってしまうため、おいそれと手が出せなかった。
その代わりに、当時定額料金で主流だったのはDDIポケットが提供していたエアーエッジで、速度は最大32kbps。128kbpsの特別プランもあったが、月々1万円近くの大金を払わなければいけなかった。おまけに、まだまだ公衆Wi-Fi環境はへなちょこで、あちこちでつながる今とはほど遠い有様だった。
スマホから電波を飛ばしてネットにつなげる「テザリング」はなく、当時のノートPCにあったカードスロットにデータカードを差し込んで、インターネットにつないだ。
そこまで大がかりなことをやっても、スピードは最大32kbpsと、ダイヤルアップの最大56kbpsの6割程度。「トルネードWeb」なる、データを圧縮させるソフトを使っても遅くて参ってしまうほどだったが、それでも、出先でインターネットができるのはうれしかった。
当時なけなしのお金をはたいて購入した、今はなき激安PCメーカー・SOTECのWL2120をどこへでも持ち歩いていた。モバイルノートなのに2.1kgもあったし、バッテリーも1時間半ほどしか持たなかったが、それとエアーエッジをつないでインターネットをする時間が、宝物だった。
それから256kbpsの回線を導入するなど、徐々にスピードアップしていった筆者のモバイルインターネット。そして2010年代に入り、スマホで4G回線によるテザリングが使えるようになってからは、回線速度の問題をなつかしい過去にできた。
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テレホタイムの深夜、クリックとともにゆっくりとベールを脱ぐように姿を現すウェブサイトたち。アングラなサイトも多かった当時は、闇夜を懐中電灯だけでおそるおそる進むようなスリルがあった。
あのころには絶対に戻りたくないが、昔のデパート大食堂で、30分待って食べたお子様ランチがおいしかったように、低速回線に耐えたからこそ味わえたとびっきりの楽しさが、確実に存在した。
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(執筆:辰井裕紀 編集:川崎博則 提供元:さくマガ)